浄土宗 普照山受光院
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WELCOME
正定寺は、浅草の町なかにございます。にぎやかな通りから一本入り、門を入っていただくと、二本の桜が目に入ります。奥へ進めば、鯉の泳ぐ小さな池。ビルに囲まれたささやかな境内ですが、ここだけは時間の流れ方が少し違うように思います。
そして墓所には、幕末から明治にかけて名を残した人々が眠っております。剣に生きた者、鏝に生きた者、筆に生きた者。歩んだ道はそれぞれですが、いずれも一芸を極めた人たちでした。
お参りの方も、散策の途中に立ち寄られた方も、どうぞご遠慮なくお入りください。
THE PRECINCTS
01
めおとのさくら
門を入ってすぐ、塀ぎわにソメイヨシノが二本、寄り添うように立っております。当山では古くから「夫婦の桜」と呼びならわしてまいりました。
いつ、どなたが呼び始めたのかは伝わっておりません。先代から、そのまた先代から、ただそう呼ばれてきた木です。住職も、幼い頃に祖母からそう教わりました。
春になりますと、二本がほとんど同じ時期に咲きそろい、境内を淡く覆います。近隣の方が写真を撮りにいらっしゃることもございます。どうぞご自由にご覧ください。
02
こいのいけ
桜を過ぎて境内を進んでいただきますと、玄関の手前に小さな池がございます。いつ頃からあるものかは分かりませんが、少なくとも住職が子どもの頃には、すでにここにありました。
鯉は六匹。この数には、ささやかな由来がございます。
03
ほんどう
ご本尊は阿弥陀如来をお祀りしております。日々のおつとめ、ご法要はこちらで営まれます。
建物は現代的なつくりで、いわゆる古刹らしい佇まいではございません。関東大震災と戦災を経て、この町の寺はいずれも姿を変えました。それでも、お念仏の声がこの地に絶えることはありませんでした。
お参りをご希望の方は、どうぞお声掛けください。
THE GRAVES
剣に生き、鏝に生き、
筆に生きた人々が眠ります。
正定寺の墓所は、どなたでもご自由にお参り・ご見学いただけます。事前のご連絡やお申し込みは必要ございません。散策の途中にふらりとお立ち寄りいただいて構いません。
ただし、団体でお越しになる場合や、取材・撮影をご希望の場合は、一度お電話でご一報いただけますと助かります。ご法要と重なりますと、静かにお参りいただけないことがあるためです。
墓所は檀信徒の皆様の眠る場所でもございます。他家のお墓の撮影はお控えいただき、お参りの方のご迷惑にならぬよう、静かにお過ごしくださいますようお願い申し上げます。
幕末の剣豪 ── 台東区登録文化財
しまだ とらのすけ
文化11年(1814)─ 嘉永5年(1852) 享年39
其れ剣は心なり。
心正しからざれば、剣又正しからず。
すべからく剣を学ばんと欲する者は、
まず心より学べ。島田虎之助の言葉として伝わる
文化11年(1814)、豊前中津藩士・島田市郎右衛門親房の子として生まれました。諱を直親、号を峴山(けんざん)といいます。
十歳の頃から藩の剣術師範・堀十郎左衛門の道場に通い、外也一刀流を学びます。十五歳頃には藩内に相手になる者がいなくなるほどに上達し、十六歳で九州一円を武者修行して名声をあげました。
この頃、日田の広瀬淡窓や、筑前の高僧・仙厓義梵のもとで学問を修めたと伝えられます。剣の腕を磨くかたわら、儒教と禅を学んでいたわけです。のちに彼が「剣は心なり」と語ったのは、この時期の学びと無縁ではないのでしょう。
天保2年(1831)、江戸を目指して中津を発ちます。ところが、江戸にその姿を現したのは、それから七年も後のことでした。
道中の下関で、長門屋嘉兵衛という造り酒屋に寄食するうち、嘉兵衛の娘と相愛となり、菊という女の子が生まれます。また、近江水口藩に仕えていた同郷の儒者・中村栗園のもとで漢学を学んでもいました。まっすぐには進まぬ道のりでしたが、その七年が、のちの虎之助をかたちづくったようにも思われます。
天保9年(1838)、ようやく江戸に着いた虎之助は、当時「日本随一」と称された男谷信友に試合を申し込みます。男谷はあっさりとこれを受け、三本勝負のうち一本を虎之助に取らせました。
勢いづいた虎之助は、続いて井上伝兵衛の道場へ挑みます。井上は男谷と同じ直心影流藤川派の「三羽烏」とも称された強豪で、手加減なしに虎之助を打ち据えました。虎之助が入門を申し込むと、井上は男谷への入門を勧めます。
虎之助は答えました。「亀沢町ではもう手合わせ願いましたが、評判ほどのことはありませんでした」と。井上はにやりとして、君の観察は甘い、あの方の技量はどこまで強いか底が知れない、君は軽くあしらわれて花を持たせてもらっただけだ、もう一度行ってみろ──そう言って、紹介状を書いてくれたといいます。
虎之助は言われた通りに男谷道場を再訪し、謝って弟子入りしました。一説には、このとき再び立ち合ったところ、男谷の眼光に圧倒され、道場の隅に追い込まれて平伏するほかなかったとも伝わります。
男谷の内弟子となった虎之助の上達は目覚ましく、一年あまりで師範免許を受け、男谷道場の師範代を務めるまでになります。その傍ら鈴木清兵衛の道場にも通い、起倒流柔術を学びました。
この鈴木道場で相弟子となったのが、若き日の勝麟太郎──のちの勝海舟です。この縁により、虎之助が自分の道場を開いたのち、勝は男谷の紹介で虎之助に入門することになります。
天保14年(1843)、奥羽への武者修行を終えた虎之助は、浅草新堀に道場を開きました。当山からほど近い一帯です。道場では兄の島田小太郎友親が師範代を務めました。同じ頃、松平忠敬(忍藩主)の出入り師範として二十人扶持の俸禄を得ています。下関で生まれた娘・菊は、松平忠敬の家臣に嫁ぎました。
男谷信友、大石進とならび「幕末の三剣士」と称され、直心影流島田派を名乗りました。
嘉永5年(1852)9月16日、病により没しました。三十九歳という若さでした。
遺骸は当山に葬られ、墓碑の銘文は師・男谷信友(精一郎)によるものです。そこには、「余、哀歎ほとんど一臂を失うがごとし」——私は嘆き悲しみ、まるで片腕を失ったようだ——と刻まれています。当代随一と称された剣客が、二十五歳も年下の弟子の死を、これほどの言葉で悼んだのです。剣で結ばれた師弟が、石の上でもう一度向き合っているようで、この墓の前に立つたび、思うところがございます。
お墓は台東区の登録文化財となっております。どうぞお参りください。
鏝絵の名工 ── 台東区登録文化財
いりえ ちょうはち / 通称「伊豆の長八」
文化12年(1815)─ 明治22年(1889) 享年75
漆喰と鏝だけで、
絵を描いた人がおりました。左官の仕事を、美術へと押し上げた名工
文化12年(1815)、伊豆国松崎村明地(現在の静岡県賀茂郡松崎町)に、貧しい農家の長男として生まれました。
幼い頃から左官の道に入り、腕を磨きました。松崎は駿河湾から強い風が吹き込む土地で、家を守るために左官職人の多い地域でした。長八はその当時から、手先の器用さで知られていたといいます。
天保元年(1830)、江戸へ出て、左官棟梁・源太郎の弟子となります。ここからが、長八という人の面白いところです。
彼は左官の腕を磨くだけでは満足しませんでした。修行のかたわら狩野派の画法を学び、「乾道(けんどう)」と号します。左官職人が絵を学ぶ──その組み合わせから生まれたのが、あの鏝絵でした。
漆喰を塗った上に、鏝で絵を描き出す。これを鏝絵といい、石灰絵とも呼ばれます。壁を塗るための道具と材料が、そのまま絵画の道具になったのです。『異本日本絵類考』は長八を「最古の技に長ぜり」と記し、その花や鳥獣を描く技を「世人以て絶妙の技となす」と評しました。晩年には仏教学も学んで「天佑(てんゆう)」と号したと伝わります。
弘化2年(1845)、三十一歳になった長八は、弟子を連れて故郷へ戻ります。自分が学んだ寺子屋、浄感寺の再建に加わるためでした。
このとき天井に描いた『雲龍』、欄間を飾る『飛天の像』は、いずれも傑作とされ、現在は静岡県指定有形文化財となっています。浄感寺の本堂は現在「長八記念館」として公開されており、これらの作品を実際に見ることができます。
晩年、明治13年(1880)にも六十五歳で再び故郷を訪れ、岩科学校などで制作にあたりました。重要文化財である岩科学校「鶴の間」の『千羽鶴図』は、長八の代表作として知られています。
長八は、浅草寺観音堂や目黒の祐天寺をはじめ、江戸・東京の各所に作品を残しました。浅草での見世物が評判を呼んだこともあり、この町とは深い縁がございました。
しかし惜しむらくは、江戸から東京へと町が姿を変えていく中で、それらの多くが失われてしまいました。震災と戦災を経た浅草に、長八の手がけた壁は、もうほとんど残っておりません。故郷の松崎に作品が守られてきた一方で、彼が最も活躍した町からは、その記憶が薄れていったのです。
明治22年(1889)10月8日、深川にて七十八歳で亡くなりました。
長八が「入江」を名乗るのは、明治3年(1870)に名字が許されてからのことです。はじめは「上田」と名乗り、のちに養家である深川播磨屋の縁から「入江」と改姓しました。
没後、遺骨は当山に埋葬され、同時に故郷・松崎の浄感寺にも分骨されました。長八の墓は、浅草の正定寺と、伊豆松崎の浄感寺の二箇所にございます。当山の墓石には「入江家先祖の墓」と刻まれ、台石には養家の家号「深川播磨屋」が刻まれています。
江戸へ出て腕一本で名を成した人が、最後に故郷の寺と、働いた町の寺と、その両方に分けて眠ることを選んだ。そのことを思いながら、この墓の前に立っていただけましたら幸いです。
お墓は台東区の登録文化財となっております。
明治の戯作者・新聞人
たかばたけ らんせん / 三世 瀬川如皐
当山の墓所には、明治の戯作者・新聞人として活躍した高畠藍泉も眠っております。三世 瀬川如皐(せがわ じょこう)の名でも知られる人物です。
剣の島田虎之助、鏝の入江長八とならび、こちらは筆に生きた人でした。江戸から明治へと移りゆく時代のただ中で、文章によって身を立てた一人です。
FAMILY GRAVES
正定寺では、代々受け継いでいただく一般のお墓もご用意しております。日当たりや広さの異なるいくつかの区画がございますので、ご希望に合わせてお選びいただけます。
後継ぎのご心配がない方には、境内の永代供養塔「月の光」もございます。ご事情に合わせて、お選びいただけます。
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正定寺 〒111-0036 東京都台東区松が谷2-1-2